どうでもいいが、どうでもよくないこと。あってはいけないが、無視してはいけないこと。

きょねんのUTMFで使うはずだったトレイルランニング用の靴を、ようやくきょうおろした。買ってからおよそ1年半が経過し、コロナ禍でもマーケットにはしっかり代謝はあって、すでに旧世代のモデルと化している。思えばトレランの靴なんてレースがなければ登山くらいにしか使わない(自分の場合はロードランニングか登山なので、いわゆるトレランはやらないほうだと思う)のだから、使用頻度も極端に落ちる。

 

2020年の3月に入って、そろそろ履いて本番向けに慣らし始めようとした矢先にコロナウィルスによる中止が決定。UTMFに限らず、こういった「勝負服」的なものがその行事とともに流れてしまった人は多かろう(ただもちろん、そんなものは大局的には些細なことだ。少し前にコロナ禍における看護師のドキュメントをテレビで観た。その新人看護師の女性は、家族への感染を避けるためにビジネスホテルから通勤し、人を助けたくてその職業を選んだのに、逼迫する病棟で救うことができずに絶えていく命に向き合い、無力感と極度の疲労感のなかで職場を去る選択を取らざるをえなくなった)。

 

もとい。そのうえで、やはり他人には理解されなかったり、言葉にすることがはばかられたりするが、自分にとってはとても重要なことは確実にある。こういうことは、公言できないにせよ、気の置けない仲間とくだらない、それ自体たいした価値のない(あえていえば)クソみたいな会話のなかで、当人にとってガス抜きとして作用してきたのだろうと思う。

 

いまは、「どうでもいいこと」は語るに値せず、コロナ禍でなくても、合理的で理性的なものが求められている。「どうでもいいこと」を「どうでもいいまま」発することが難しくなっている(と、一方的に感じている)。その場所も失われている。それが、社会が成熟するということなのだろうか。確かに理不尽なこと、不条理なこと、それらによって人間の尊厳や存在そのものの価値を蹂躙(書けない漢字を書いてしまった)するようなことは許されない。かといって、社会にどうしても存在するそんな個人では思うにまかせないことに対し、目をつむって「無いもの、あるべきではないもの」として捉えるのか、克服すべきものとして見るのかによって、向き合う態度には違いが出るだろう。

 

矛盾や理不尽は、「無いもの」とされたものの断末魔の叫びかもしれない。それが無視されることでガスが溜まり、ある日突然爆発することになる。無視するのではなく、まずはその存在を認めることがスタートであるはずだ。