コロナの記録

(今のところ)仕事も失っていない、給料も下がっていない、恵まれている。しかし、日本国内のみならず、海外の状況によっては先々影響を受ける可能性もおおいにある。しかし、医療関係や食料品関係など、不特定多数のひとと接する、いわゆるエッセンシャルワーカーではないから、やはり恵まれている。「現場」は相当大変なことになっているとのこと。頭が下がる。

 

会社は先週からテレワーク主体になったが、自分はたまたまタイミング的に会社にいないとできない(と思われる)仕事が重なり、きのうになって初めて在宅での勤務となった。それまでのバスでの通勤は、リスクが伴うとは思いつつも、「止むを得ない」ものとして認識していた。そのバスにしたって、首都圏の緊急事態宣言以降はずいぶん乗客が減った。おとといの帰宅時には、運転手の近くの前のふたつの席に座るのが禁止になっていた(テープが張られていた)。

 

初めてテレワークをして思ったことは、ウイルスの媒介をほんの少しでも減らすことができた、という、貢献の感じ、いや、マイナスをゼロにできる安堵感、というのが精確と思う。必要とはいえ、通勤をし続けることが誰かの感染リスクを高めていることは確実であり、それをしないことで、ゼロにできるという、なかば「当たり前の義務」を果たしている安堵。

 

ネットでお笑い芸人が口汚くマスクをしないで走るランナーを罵倒していた。自分は花粉症ランナーなのでこれまではたまたまマスクをして走っていたが、4月後半はそろそろ花粉症の症状も収まりつつあるので、ようやくマスクをとって開放感にひたれると思った矢先である。

 

このあいだの日曜日は、いつものコースの鶴見川をマスクなしで走ったのだが、普段と違うあまりのひとの多さに驚いた。こうなると、「普段来ないくせに」という反感を覚えつつ、「密」を避け、外に出たいみんなの気持ちは深く理解できるので、さすがにこれはマスクがいるのだろうと思った次第。コロナうんぬんの前にひととすれ違ったり抜いたりするときは、事故防止や恐怖心を与えないために距離をとっていたけどね。

 

あまりにもひどい罵りかたなのであの芸人には脊髄反射的に反感を覚えるが、ネットニュースのコメント欄をみていると、けっこうな割合で、マスクをしているしていないにかかわらずランナー自体を白眼視している投稿も散見されて萎える。批判は大事だが、非難ばかりの世界にもそろそろ萎えてきた。夜か早朝に走るかしかないが、ああ、田舎に住みたい。まあ、走るのっていまの自分の生活には非常に重要なんだが、たしかに「不要不急」ではない。でも「エッセンシャル」ではある。マスクをして、ひとと距離をとって、忍者のようにこっそりひっそり走ります。

 

岡江久美子さんがコロナ感染で亡くなった。ショック。大学生の時に「はなまるマーケット」を目にすることが多かったし、綺麗でやさしそうで、単純に好きな女優さんだったので。本人と家族は無念だろう。

 

ニュースをみてもコロナばっかりで、バラエティ番組みても現実との乖離の感じに馴染めないから、いまは家で(広義の)「芸術活動」をするしかやることがないだろうと思い立った。読書、文字を書く、そうだ絵を描くのもいいかもしれない。歌を歌うのでもいい。残念ながら楽器は弾けない。料理もいい。ヨガや体操も自重筋トレも、いかに体を動かすか考えるアートだろう。

 

今回の件で、いかに反復というものが脆いものかを実感した。ふだんは反復することの凄さを知らないのだ。