ことばはめぐる

つい昔きいた、記憶のなかにある谷川俊太郎さんの詩を読みたくなり(本というメディアで手元に置きたくなり)、アマゾンで古本を購入。古本は基本的にきれいな状態のものを買いたいのですが、安いのがなかったりするばあい、総合的に考えて状態の比較的悪いものを注文することもある。そうすると、まえの所有者による線引きとか、メモ書きとか、そういう個人の痕跡が残っていることがあって、それはそれで、おもしろい。

ということで、谷川俊太郎詩集『これが私の優しさです』(集英社文庫)。最初、尻のマークかと思ったのだが、よく考えてみるとハートですね、これは。そうかー、これは女子が所有してたのかー。ハートのマークって、婦女子はこういう使い方をするのだね。ぼくは、つのだ☆ひろさんとか、漫☆画太郎先生に倣って☆マークを使ってましたが、これからはいろいろと使い分けてみようかしら。小学生に回帰して、ウンコとか。しかし他人の手に渡ったら、意味不明で混乱するでしょうな。それも一興。あれ、本題にあまり関係ない小話を挟んでしまった。

「これが私の優しさです」は、けっこう知っているひとも多いのではないのかな。これは、ひとの死について考え巡らす詩なのです。ちなみにぼくは祖父母や伯父が他界したときには、きまってこういうことを考えていました。

これが私の優しさです 谷川俊太郎

窓の外の若葉について考えていいですか
そのむこうの青空について考えても?
永遠と虚無について考えていいですか
あなたが死にかけているときに

あなたが死にかけているときに
あなたについて考えないでいいですか
あなたから遠く遠くはなれて
生きている恋人のことを考えても?

それがあなたを考えることにつながる
とそう信じてもいいですか
それほど強くなっていいですか
あなたのおかげで

*1

ひとでなし!といわれるかもしれませんが、ぼくはいまだに人間の死をそれほど悲しいものだとは思えていない(しかし不思議なことに涙が出るときは出る)。死は誰もが通る道であるし、ことさら騒ぎ立てる気もしない。ぼくが感情的にならざるを得ないのは、死そのものではなくて、「死にかた」のほうで、毎年自殺が3万人もいるとか、殺人による死とか、夭折とかそういうことにはもちろん心が動揺する。

ここでぼくがいうのは、「生命体としての死」という現象のことで、これ自体には悲しいとか嬉しいとか、そういう感情は、なんというか、語弊があるが「似つかわしくない」印象を持っている。ぼくらは他者の死についてある程度経験上語ることができても、自分の死については原理的に語ることばをもたない。おおよその想像に頼るしかないのだ。しかし、死というものを考えるときに、自分という存在を回避して語ることはできない。ここでぼくらはことばを失ってしまって、押し黙るしかない。

だから、けっきょくは自分の生について語ることしかできない。ぼくは、自分の身の回りのひとが亡くなったときに、こころから悲しい気持ちにならない自分をずっと否定的に捉えてきた。自分のことしか考えられない自分を、ずっと嫌悪してきた。でもこの詩に出会って、そういう心の動きが、必ずしもぼく固有のものではなく、誰かと共有しうるものだと知って孤独感が薄らいだのを覚えている。自分の考えていることが周囲の価値観と相容れないとき、自らを否定するのではなく(かといって盲目的に肯定するのではなく)、その齟齬を抱えたまま生きていくという、覚悟(というと大げさですね)めいたものを得たのでした。チャンチャン。

なので、この詩はぼくにとって、死について考えるとともに、世界と自分とのギャップのなかで、自分を改めて見つめなおす、とてもたいせつな詩でもあります。

これが私の優しさです―谷川俊太郎詩集 (集英社文庫)

これが私の優しさです―谷川俊太郎詩集 (集英社文庫)

*1:詩を全部引用することは著作権上問題があるでしょうが、部分的に切り刻むことは詩の世界観を破壊し侮辱することのように思えたので、すべて引用した。問題があれば削除いたしますのでご指摘ください。