『眠られぬ夜のために』ヒルティ

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

仕事で疲れて家に帰って気絶、ということであれば幸せですが、中途半端な時間や量でアルコールを摂ってしまったときや、歓喜や不安など、気持ちが高ぶっているときには、不幸なことに夜は長いものになって、おおいなる苦痛としてぼくらに襲いかかってきます(歓喜のときはいいのだけど)。

そんなときは難しい本を読んだり、ばあいによってはアルコールでごまかそうとするのですが、後者は次の日がキツくなるので、もうできない(深夜の酒を体が受け付けなくなった)。本も、わりと早い段階で眠りに落ちることができればいいのですが、ときには理解不可能な文字列が脳に蟻の大群のようにまとわりついて、苛立ちを増幅させ、余計眠られなくなることがしばしば。

それできょうは本も馴染まないので、手と脳とを動員して、文章でも書いていたら疲れて眠れるかな、というわけです。

ヒルティの『眠られぬ夜のために』は学生時分の東北・北海道ツーリングの際、夜のテントで読んでいたものです(その時の不眠の原因は寒さだったので、活字を追おうにも集中できなかったのが実際ですが)。この本は眠られぬ夜を、無益な時間の浪費から有意義なものにしようと謳っていますが、基本的にキリスト教がベースなので、いまいち理解できない。けっして難しいことを書いているわけではありませんが、眠られない夜を克服するための考え方の背景が、キリスト教に基づいているので、Godを信仰していない、あるいは馴染みのないぼくらには、すんなり入ってこない。「理解できない」というのは、そういう意味です。

でもまあしかし、なかなか含蓄があるな、とか、自分の価値観と比較して批判的に読むとなかなかおもしろい、とか、そういう記述もけっこうあるので、それこそ眠られぬ夜にちょびちょび読むのも悪くない。久しぶりに引いてみたら、むかし線を引いたところとか付箋を貼付けたところが懐かしくて、興奮してきて眠られなくなってしまった!

不眠のときに、ただいたずらに自分の思いに身をゆだね、いわば自己という小舟を思念の波の流れにまかせるのはよくない。むしろ、思念に対してその進むべき方向を命じなくてはならない。従って、第一に、自分自身を相手に語ってはならない。それはたいてい、不安を増すだけだからである。できるならば、つねにゆるがぬ平安を与えて下さる神と語るか、それとも、もしそういう人がいるならば、あなたを愛してくれる人たちと語りなさい。とりわけ、誠実な女のひとと話すのがよい。そういう人の言葉や手は、しばしば大きな慰めを与えるものである。(pp.10-11)

神も、愛してくれるひともいないばあいは、どうなるのでしょう。という自虐的な思考に陥り、自分自身を相手に語りだすのがオチ。しかし、「愛してくれる人」というのは比喩かもしれない。「愛する仕事」とか、「愛するモノ」とかでも、語り合う対象としてはいいのでしょう。自分自身と語り合うのを避けるという点では。

ひとは他人からなにも得ようと思わないなら、全く違った目で彼らを見ることができ、およそそのような場合にのみ、人間を正しく判断することができる。(p.134)

それは正しいと思うけど、一歩踏み込んだ関係性がつくられるためには、ひとへの愛というか、執着とでもいえるものがないといけない。理性的判断によって「わかる」ということと、ある程度他者と長い時間を共有することで相手を「わかる」ということとのあいだには、大きな違いがある。前者のことをふつう、「理解した」とはいわないような気がします。もちろん、ここでヒルティは「判断」といういささか傲慢な表現でいっているから、後者については言及していないとは思いますが。

大きな内的進歩がなされる前には、つねに絶望への誘惑が先立ち、大きな苦難が訪れる前には、非常な内的喜びと力の感じ与えられるものだ。(中略)もしあなたが憂鬱であったり、不安であったり、そのほか不機嫌なときには、すぐ真面目な仕事にとりかかりなさい。もしそれができにくいならば、誰かに(福音書のいわゆる「隣人」に)小さな喜びを贈りなさい。これなら、いつでもできるはずだ。この方が、普通みんながするように、なにか享楽や気晴しでもって、陰気な霊を追い払おうとするよりもはるかに有効である。(p.157)

極端に自信がない精神状態に陥っているときには、誰かに与える喜びにさえ自信がもてなくなる。果たして自分の一方的な好意が相手に受け入れられるものかどうか、とか。むかしからモノやコトを誰かにプレゼントするのが苦手なので、ヒルティのいうようにできたら、どんなに心が安まるだろうか。

われわれは、もはや全く自分のことを考えず、その意味で自我をすっかり棄て去ることに、自分を慣らさなくてはならない。しかし、それができるようになるには、その前に、人間の本性の深い堕落を経験によって知り、また、これと全く異なる生存の実際の可能性が自分自身において示されていることを、やはりいくらかの経験を通じて、知らなければならない。(pp.287-288)

「人間の本性の深い堕落」、これはいくらでも自分自身の経験と照らし合わせていくらでも比喩的に解釈できますね。キリスト教徒であろうとなかろうと。この堕落には毎日押し潰されそうだけど、「全く異なる生存の実際の可能性」など、いまだ経験していない。本性の堕落とそれがもたらす罪の意識は、一生払拭されることはなく、共存していくしかないよなあ。


という感じで、いろいろ引いてみたけれど、脳が疲れて(ヤツレて)いい感じで眠れそうになってきました。読みなおしてやはりおもしろいと感じたのは確か。けれどもけっきょくは「自分自身との対話」に陥ってしまって疲れる。

ざっくり再読して思うのは、誤解も多分に含まれると思うけど、「理性によって人間精神をコントロールできるし、そうすべきだ」というふうにヒルティがいっているように読めてきて、アンストイックな自分としてはイジけ気味にちょいと疲れます。でも、ここまで執拗に信仰への執着を描くヒルティ自身も、だいぶ悩んだひとなんだねえ、うんうん、という気もして可愛らしい本でもあります。なんというか、彼自身の闘いの軌跡というか。ハナタレ大学生のときよりも読んで楽しかったな。