びっき 2011年9月号

だいぶ涼しくなりましたね。都内の公園の芝生で、体育座りでぼーっとしたい気分です。高校時代の部活の帰り道、日が長い季節に練習で疲れたカラダでフラフラ自転車をこぐとき(そう、ぼくらは西日に向かって帰っていた)、「永遠にこの瞬間が続けばイイな」とよく思ったものです。

でも、永遠、ってなんでしょうね。結婚式でカプルは「永遠の愛」を誓わねばならないし、長寿であることが良しとされたり、なぜみなさん(ぼくをふくめ)は「なにかがずぅーーーっと続くこと」を望むんでしょうね。

永遠へのあこがれ、って、ぼくは最近、「喪失」、あるいは「思考停止」、もっといえば「死」なんじゃないかって考えるようになりました。それは、「幸福な状態」の無条件の持続を渇望している心理状態、怠慢、変化への怖れ、自己と他者との関係性の切断、冷凍保存。ぼくらはそんな強くはないから、日々のつらいことに耐えるために自らそういう思考的な操作をして、外部の刺激たちから自分を守ろうとするのではないでしょうか。なんだか、「死を怖れて死ぬ」っていうか、おもしろい心のはたらきですよね。

子どものころから、進学とか就職、転職とか、そういった節目節目で、ぼくらは場所や人間関係を大きく変えてきました。もちろん、その転換点で過去をすべて一掃するわけではないのですが、ともにする時間がいちばん長いひと(たち)は、見事なほどにごっそり入れ替わっている。そんななかで、やはりむかしからの付き合いのひとと会う機会があると、テンションがあがります。「素直な自分」に会えるような錯覚をして。そして、会ってからそのあとで、なんかチガウ、って、テンションががっつり下がることもままあります。勝手なものです。

きっと、「ステキだった過去」に過度に期待して貪り喰いたいからなんでしょうね。しかし味覚が変わってしまっているような気がして、口に合わないと、ショゲる。勝手なものです。ただ、相手のなかに、あるいはその相手と接している自分のなかに、なにか当時と変わっていないものをみつけてホッと安心することもある。これも事実です。

まあ、会っているときはそんなことを考えてる余裕なんて、ないんですが。勝手なものです。すみません。
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*1:「びっき」はあくまでも論理や理性を拒絶した、随想的テキストです。不定期連載。