車輪のうえ(14)

 郵便局員の女の子に優しくされて調子を取り戻したぼくは、快調に自転車をとばすことができた。ところが道標は乏しく、テンションが上がったのも束の間、あっけなく道に迷う。

 迷う、というよりは自分の現在位置に自信がもてず、不安にかられている状態といったほうが具体的か。実際に道に迷った(かもしれない)という焦燥感は、人間から冷静さ、平常心、というこころの状態を奪う。いかにこころを落ち着けようとして、ゆっくり、落ち着け、とおのれに語りかけても、問題が打開されず時間が過ぎて行くほどに、その語りかけは虚しいおまじないに変わり、しまいにはコトバを出すことも忘れ、口をワナワナ震わせながらパクパクさせるだけになる。残念なことに、そんな頼りない、しかも次第にしぼみ行くわが「平常心」と、日本のものとはちがって非常におおざっぱな現地の道路地図、時計のデジタルコンパスだけがぼくの羅針盤なのだ。

 失われ行くその平常心を自分のもとにたぐり寄せるために、自転車を停め、地図と格闘する。むむ、これはわからない。もしかしたら地図にない(表現されていない、あるいは新しい)道を走っているのではないか。しかし少なくとも街には近づいている雰囲気はある。落ち着け。もうおそらくイポーの街には入っている。眼に見えるもののなかに、手がかりはないかーーー。

 街に入った時点で、もう安心してもいいのかもしれない。だが、アリの心臓のぼくは、その日の寝床を確保するまで、ひと息つくことはできない。

 そんな小さな格闘が長かったのか、ほんの一瞬だったのだか忘れたが、英語を話す中国人系の年配の男性に声をかけられる。きょうはイポーの街に泊まるのだと伝えると、安いからYMCAに泊まるといい、案内するよというので、天の助けとばかりにほっとする。旅は悪意にも遭遇するが、善意に出合うほうが多い。圧倒的に。

 白い車が、ちょっと走っては止まり、走っては止まりを繰り返し、先導してくれる。

 よく、「ひとりで生きてるなんて思うなよ」という紋切型の説教(人生訓?)めいたいいかたがあるが、誰かにとうとうと正座させられて指摘を受けるまでもなく、ぼくらはそれを実感しているはずだ。ただ、わりとあたりまえ過ぎて、立ちどまって実感することを忘れているのかもしれない。他人にいわれると反発でもしてやろうか、という気分になるが、窮地(おおげさだが)に立たされたときに助けられると、ひとりでなくてよかった、と心底思うものだ。

 ぼくはわりとむかしからひとりで行動する、ひとりでいることが好きで、あえていえば「孤独への親和性」とでもいうものが強いのだと思う。だからかもしれないが、なんでも強引に自分ひとりでやろうとして、他人に頼るようなことはしない。ひとに甘えることに羞恥心を覚えるし、実際に甘えるのがヘタクソだ。

 助けを求めることそれ自体は、恥ずかしいことではないのに、我慢してけっきょくひとに助けられる。こんなふうに救われてしまうと、おのれの弱さのなかにある無意識の狡猾さが露呈するようで、さらに恥ずかしくなる。

 ともあれ、曲がりなりにも宿にありついたのもひとつの事実。自分の生をひとつ未来へすすめたという、事実。物理的な障害を越えるのも旅、精神的な大小の波を乗り越えて行くのも旅。目標は低次元だが、とりあえずきょうも生きた。