びっき2012年1月号(読書記録にあわせて)

どくとるマンボウ昆虫記 (新潮文庫)

どくとるマンボウ昆虫記 (新潮文庫)

ムシのたぐいは幼少の頃から好きですが、やはり身体だけでもおとなになると、目線が高いのか、あるいは「見る」ことに鈍感(「慣れ」ということでしょう)になるからか、ムシのたぐいは目に入らなくなってしまいます。ゴキブリや、真夏にうるさいアブラゼミの轟音など、嫌悪感をともなう存在だけが、ぼくらの聴覚や視覚に無理やり入り込んでくるのみです。

ぼくのばあい最近飼い始めたヘビなんかについてもそうですが、好きなムシについて考えているとき、(自分は生物学者ではないので)、ある意味、社会的には「意味のないこと」をしているわけです。「役に立たないこと」と言い換えることもできます。

仕事でもプライベートでも、ぼくらは実にたくさんの他者と関わりあいながら生きている。名前を与えられ、免許証やパスポート、健康保険証やらの「身分証明書」で辛うじてこの社会のなかでその場を与えられている。自分という存在が理屈で表現されている。論理や因果関係、意図、結果の妥当性、正当性がつねに意識され求められる。

正直、そればっかりだと疲れてしまいます。なんか、脱力するというか。はー、ぐったり、みたいな。コムズカシく書くと、どうしてそこまでして自分の正当性を主張したいの?ってことですかね。

そんなとき、ぼんやり小さな動物たちに思いを馳せると、自我が溶解するというか、忘我というか(「エクスタシー」という語感とはちょいと違うけど)、とにかく楽になることができます。もちろん、まさにその瞬間は自分を失っているので、あとになって「あのときはのーんびりできてたな」とぼんやり振り返っての感想ですが。

よく大自然とか宇宙に心打たれて、日常のささいなことなんてどうでもよくなった、っていうひとがいますが、これに近いのかもしれません。ぼくのばあいは、あまり物理的な広大さには心は惹かれなくて、小さな動物の目線に降りた世界観、あえてコトバを与えるとすれば「小宇宙」的なものにグッとくる、という感じでしょうか。ぜんぜん違うかもしれないけれど、密教曼荼羅(マンダラ)とかも自分のなかではわりと近い。