ある人間Aのためのデッサン

ただその時々の感情に身を委ねることなく、いったんはアタマで受け止め、自分なりに理解し、常識や、周囲の空気をふまえたうえでものごとを判断していくことが、正しい人間の在り方だと思って生きてきた。それはたしかに正しい。

あるひとは、こんな態度を「優しい」、「落ち着いている」と評してくれたが、Aはその態度をむしろ、非常に冷淡なものに感じていたし、自分の言動ながら、妙によそよそしい印象をもっていた。自分の態度が、安易にコトバに集約されてしまう屈辱に近い哀しさをこらえていうならば、いわば「理性」とでもいうべきものでドライブされている、「自分ではないなにか」が己を乗っとっている感覚。

自分は、ここには、きっといない。ぼくは、交換可能だ。

しかしAは、名前を失うことの不可能性も知っている。この身体は、まちがいなくぼくのものだ。これは「所有」を意味しているのではない。「いまここにぼくとしてある」このたしかな存在性だ。ナイフで指をカットした時の、指先に集中する拍動。皮膚の疾患の、間違いのない痒みと掻痒の快感。疑いなく、逃げられぬ己の身体。

では、ぼくはどこにいるのだろうか。

安易な二分法。優劣のコード。しかしそれは世界を認識するために必要なメスであって、ぼくらの世界を表現する揺るぎない文法なのだ。教育の瑕疵。欠陥。