車輪のうえ(11)

 7:15にポート・ディクソンのユースホステルを出る。前半は高原めいたところを走るが、大型車両が多いうえに道が狭く、ストレスフルな道。後半はただひたすらの直線で退屈極まりない。自転車は慣れてくると、乗りながら休んだり、退屈したりできるようになる。自転車に乗っていること自体が楽しく、興奮を与えてくれるもののはずなのに。

 下りのエスカレーターを上るように、「幸福感」は留まらず。客観的にみれば、そんな徒労とも思えることを好きでやっていることじたい、幸福といえるのかもしれない。が、けれども、今はそんなふうに自分を俯瞰してみることができる気分じゃない。確実に「何か」を、その先に求めてサドルにまたがっている。それがたとえ弱さの発現だったとしても、価値判断なんてものはどこかに置き去りにしたい。

 わずか87キロの行程ではあったが、昼過ぎにはバンティンに到着。アッチの方面の宿かと見まがうアヤシい構えの宿だったが、ふつうのゲストハウスだ。エアコン、シャワールーム付きで35リンギット(当時)は安い。


 その次の日は、埃や排ガスににまみれた。日記には「これまででいちばん疲れた」とある。ぼくのヘタレっぷりを象徴するかのように、このセリフはこのあと何度も出てくるようになる。いつも苦痛は更新されていく。

 けっきょく、「いま」の苦痛が、そのひとの一生において最もリアルで「痛い」ものなのだろうか。それとも「いま」の苦痛をどこかに押しやってしまうくらいのインパクトを持った致命傷が、ぼくの過去には存在しないから、そう感じるだけなのだろうか。もしそうであるならば、これまでのぼくはたいそうシアワセな男だ。

 目的地クアラ・セランゴールには国立公園があって、景色がいい場所があるというので、歩いて行ってみる。猿とおそらく女子大生と思われる日本人数名と出会う。旅に出て最初の日本人だったので、テンションがあがり声をかけたが、もののみごとに無視。警戒されたのだろうか。確かにアヤシいが、無視とはね。若い溢れんばかりのみなぎる性欲が表に出ていたのだろうか。隠す術を身につけねば。毎日更新される疲労には、打ち克つことはできまい。

 この日の「過去最高の疲労」は、飯とビールで慰めた。食事はたいていのばあい、辛いときの相手をしてくれる。失恋だって失敗だって、飯で流し込んでやるのだ!