雑感

一切皆苦すぎて、諸行無常すぎて、諸法無我すぎて、どうにもたまらない感じですがみなさんいかがお過ごしでしょうか。一時的なものかもしれないが、花粉症の症状がこの週末からだいぶラクになっている。そのおかげか、そのせいか、「よけいなこと」を考える余裕ができてしまって、これはこれで参っている。

さいきんは仕事以外ではSNSからも距離を置いているし、自分の経験をほかのひととシェアしたいという、自己顕示欲の化身あるいは亜種とも付き合いが希薄になっている。そうなってくると、仕事がなくひとと会う予定のない休日は一種の隠遁生活じみてきて、すごく自由で愉快である。若い時ほど孤独感や、寂しさみたいなものはない(それが困るわけだが)。あまりにある意味満たされすぎていて、あす死んでもいいと思えてしまうから不思議だ。注意しておくが、これは厭世的なものではなく、「やり尽くした」感である。

これ以上生きていても、想像をはるかに超える喜びや楽しみはないと思ってしまうと、それほど生に対する執着はないことに気づいてしまう。生きることそれ自体が生きる目的、といい切れるだろうか。家族など、自分にとって守るべきものがあれば、そのときの自分の生は、もはや自分だけのものではなくなってしまっている。けれどもそれが無いばあいは、どう生きたらいいかわからない、というのは論理的にはさほどおかしい帰結ではないのではないか。論理的、とかいってしまったが、考えるまでもない直感でそう思ってしまう。

隣人が外出しているであろう時間帯、あるいは多少は迷惑にはならないであろう時間帯に、CDをやや大きめの音量でかける(うちのマンションはRC造ではない軽量鉄骨なので、けっこう遠慮する)。音質としてはハイレゾ音源を然るべき装置(コンバータとヘッドフォン)で聴いたほうがいいのだろうが、やはり大きめのスピーカーで聴くと少しライヴ感があっていい。

当然、再生可能な音楽ソースはライヴではないのだが、視覚的に「過去」を想起させないので擬似的にライヴ的であり、そのような役割を担いうる。音に合わせて勝手にひとりで部屋で踊れば、それはまさにライヴであるし、時間の浪費ともいえるかもしれないが、「いま」を燃焼させている感がある。

ここでライヴ感という言葉で想起しているのは、生成と死の繰り返しであり、その再現である。すべてが実態のないということのたんなる確認である。