心理描写の練習

忘却ということを考えている。それなりに長く生きていると、忘れてしまいたいこともある。しかし忘れてしまいたいことほど、持病のようにある瞬間に(そう、それこそ雨の日なんかに)、その症状をぶりかえすのだ。

積極的な忘却など、可能だろうか。

禅問答だが、なにかを忘れよう忘れよう、とすることは、忘れてしまいたい対象に囚われていることになり、少なくとも論理的には、「忘却」には至らない。

なにかに囚われているようなこころの状態とは、どうやって折り合いをつけていくべきなんだろうか。

気晴らし、という方法もあるだろう。ほかのなにかに専心することで、ごまかすことは可能だろう。これはある意味、積極的な忘却といえるのかもしれない。

時間が解決する、ということもある。時が過ぎればたいていのことは、たいしたことはなくなる。これは質と量と、両方ある。日々降りかかってくるたくさんの出来事に比べたら、あんなことやこんなことは実に瑣末なことであったと。新しいことがどんどん起きるから、過去のことなんて思い煩っている時間など、なくなっていくのだ。

アランのコトバに「悲観主義は気分だが、楽観主義は意志である」というのがある。たしか『幸福論』。ツラいから忘れたい、ってのは気分。楽観主義は意志。とても強くいいコトバだ。好きだなあ。

でも、参っているときには、その光が強すぎて、カラダに悪い。意志にぜったいの信頼など、置くことができない夜もやってくるのだ。自分よりも優れている(と思ってしまう)人間に諭されたり励まされたりすると、シュン、となってしまう感じのように。