足かせとしてのゴジラ

いまの若い人たちにとって、「ゴジラ」といえば単に怪獣映画のいちキャラクターであり、あるいはてっとり早くイメージできるのは「マツゥーイ」かもしれない。東北地方太平洋沖地震にともなう津波による災害や、福島第一原子力発電所の事故を受け、ぼくが思い出したのは、「ゴジラ」だった。

ゴジラ [DVD]

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ゴジラは1954年に公開された日本映画『ゴジラ』で初めて登場した、体長50m(当時。あとのシリーズで巨大化する)の恐竜風の怪獣である。スクリーンに現れてから半世紀以上、日本だけで計28のストーリーが公開されており、風貌など、ディティルはそれぞれだいぶ異なっている。昭和中期から後期にかけて、ゴジラはヒーローとして描かれており、風貌もコミカルだったり、「おそ松くん」のイヤミのギャグ「シェー」をやったり、なんかテレビっぽい通俗的な感じになっている。

ぼくが小学ハナタレ小僧時代からリアルタイムで観たのは、平成版ゴジラといわれる一連のもので、作品でいうと『ゴジラVSビオランテ』から『ゴジラVSデストロイア』にあたる(デストロイアのあとのシリーズは、なんか…観る気がしない)。この作品群は1984年に公開された『ゴジラ』からストーリーが継続していて、内容としてはけっこうシリアスになっている(SF特有のツッコミどころ満載さには目をつぶる)。それもあってか風貌はデフォルメされていない、「生物」的な表現になっている。それでややこしいのだが、この1984ゴジラは第一作の1954年ゴジラからハナシがつながっていて、つまりなにがいいたいかというと、1984ゴジラビオランテデストロイアは初代ゴジラに託されたメッセージを引き継ぐかたちでつくられているということだ。まさにぼくがリアルタイムで追いかけていたゴジラは、単なるヒーロー怪獣ではない、なにか哀しさ、寂しさを秘めた存在であったということだ。

じゃあ、そのメッセージとはなんぞやということ。知らないひとのために簡単に書くと、設定ではゴジラジュラ紀の恐竜の生き残りが水爆実験によりその安住の地を奪われ、現代に出現したというもの。1954年当時の社会背景としては、広島、長崎への原爆投下、終戦を経て、ビキニ環礁での水爆実験による第五福竜丸被爆事故があった。つまり、原水爆の申し子ともいえる存在であるゴジラは、核兵器へのアンチテーゼという、日本においては特に象徴的なメッセージを背負っている。1954ゴジラでは言及されていないが、その後ゴジラのエネルギーの源は核エネルギーという設定になっており、たびたび原発を襲うシーンがある。

ゴジラといえば「不死身」と思っているひとも多いかもしれない。でも、実は1954年の『ゴジラ』ではその命が失われている。核という「悪魔の兵器」によって生まれたゴジラは、同じく人間によって発明された「オキシジェン・デストロイヤー」なる兵器(もともと兵器として生まれた技術ではないから、「兵器」というのは語弊があるかもしれない)によって東京湾で消滅する(オキシジェン・デストロイヤーは水中の酸素を破壊することによって生物を窒息せしめ、溶かすという技術)。オキシジェン・デストロイヤーを生み出した芹沢博士は自らが見つけ出してしまった技術の恐ろしさに戦き兵器として使用されることを恐れ、ゴジラ抹殺に使用することを拒むが、壊滅状態に陥った東京(終戦からまだ10年も経っていない)の惨状に耐えかねて、使用に踏み切る。それはゴジラとともに自らも海に消えることを意味した(同じような兵器が再びつくられ悪用されることを科学者として恐れた)。

ゴジラvsデストロイア [DVD]

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1995年の「VSデストロイア」は、1954年のストーリーをダイレクトに引き継いでおり、デストロイアという怪獣はオキシジェン・デストロイヤーによって古代生物が異常進化をした設定となっている。また、この映画に登場するゴジラは、自らのエネルギー源である核が暴走を始め、ゴジラの体は核爆発に向かう。その後、人間の兵器(カドミウム弾)によってゴジラの核爆発は避けられたものの、今度はゴジラ自体の温度が上昇を始め、メルトダウン(今回の福島原発事故で出てきた単語ですね)目前となってしまう。

人間たちはメルトダウンを阻止するため、デストロイアゴジラとを闘わせ、メルトダウンする前にゴジラを倒すように誘導する。1954年、オキシジェン・デストロイヤーがゴジラを抹殺したように、デストロイアゴジラを圧倒するが、暴走するゴジラのエネルギーは最終的にデストロイアをも凌駕し、ついに自らの体のメルトダウンが始まる……。

実際に闘っているのは、デストロイアゴジラだが、その内実は人間の技術VS技術であり、それは人間のもたらした哀しい代理戦争である。

正直にいって、1954ゴジラとVSデストロイアにおけるゴジラが溶けていくシーンは、かなり泣けるものだ。今回この記事を書くために再度鑑賞したのだが、ゴジラの最期にボロ泣きしてしまい、人前だったら花粉症の症状とカモフラージュせざるを得ない恥ずかしさをともなうくらいの鼻水と涙だった。

なにせ抱えているものが、重すぎる。そしてそれらの重荷は、今まさにぼくらが現にこの世界で抱えているものなのだ。広島、長崎の原爆投下、スリーマイルアイランドの原発事故、チェルノブイリ……史実としては知っている。しかし今回の地震は、有無をいわせずぼくらの前に原子力を突きつけた。知識ではなく、経験、いや、「体験」として。

現在、福島原発にて非常に危険な状況のなか、昼夜作業に従事されている方々、ほんとうにありがたい。ゴジラが最期に向かうシーンで、ぼくは心のなかでゴジラを応援していたが、その感情に近い(不謹慎と思われるかもしれないが)。ぼくは申し訳なさ、後ろめたさ、哀しさ、こいつらがごっちゃになったような気持ちでいる。