雑感 ある36歳の日常

もうこの歳になると日常に変化がそれほどない。いや、変化がないというよりは、けっこうまわりではいろんなことが起きているものの鈍感になっているというか、ちょっとやそっとのことでは「変化」を感じなくなってきているのだろう。

会社員。会社の休日は、カレンダー通り。たまに一般消費者向けのイベントなどの仕事で休日も働くが非常にまれ。年に5〜6回ほど、それぞれ1週間くらいの長さの中国か台湾への出張がある。国内出張は少ない。平日は早いときは早く上がるが、繁忙期はけっこう遅い(それでも一般的な会社よりは早く帰れると思う)。

平日の5日間のうち、3日はランニングもしくはジョグで帰宅する。距離は10~15kmくらいでコースを伸ばしたり縮めたりして負荷を変えている。荷物を背負って走るのは嫌いだったが、だいぶ慣れてもう抵抗がないし、河川敷の未舗装路にも慣れた。帰ってから走るのは、時間の無駄だし、いちど家に帰るとまた外に出るのに気合いがいるので(とくに寒い季節は)、帰宅ランは効率がいい。ただし、仕事直後でしかもリュックを背負っての高負荷の練習は自分のばあいけっこう厳しいものがあるので、どうしても単調になってメリハリをつけるのが難しい。まあ、今年はウルトラに照準を置いているので、高負荷の練習は不要との説もある。

家の近くのスーパーは21時閉店なので、きのうは最後の1kmを止むを得ず追い込むかたちになって、ギリギリ間に合ったと思ったのだが、あいにく棚卸しの日で20時閉店。泣く泣く最近口が受け付けなくなった牛丼のチェーン店に。豚汁が尋常じゃなく熱い。客に出して許されるレベルを優に超えていて、口内やけどで訴えられてもしょうがないくらいだった。面倒なのでそのくらいはいちいち言わないが。言える自分になりたい、と思う時もある。

そういうツイテないこともあるし、飲み会で出会った女子を映画に誘ってもツレないとか、仕事がうまく回らないとか、スギ花粉が飛散しだしたとか、いろいろあるが、それでも綱渡りの日常から振り落とされまいと、淡々と日常をこなすことにはかすかな意味がある。というか、意味が「ある」のではなく、意味が都度、生成しているのだ。ハイデガーニーチェ講義ではないが。

人生の意味を問う段階は終わり、自分が生まれ続ける意味そのものに「なる」段階にきている。そうなるのが遅いと言われるかもしれないが、永遠の思春期を自認するおれとしては、よくここまで死なずにきたな、という感覚だ。さっき書いた命がけの「綱渡り」をしてまで、意味を生成し続ける生を全面的に肯定できているか、と言われれば全くそういうことはなく、むしろかなり疑っている自分もつねにいっしょに存在している。