読書記録『ひとり旅』(吉村昭)

 

 雑誌や会報などに掲載された吉村昭のエッセイや対談を集めた文庫。個別のトピックはそれぞれ作家の作品や人生に対する姿勢について垣間見ることができて興味深い。けっこう内容の反復があって、前に読んだか?というデジャブに陥りがちだが。

 

本のタイトルに「ひとり旅」とあるように、自分の足で地方に赴き取材をして人や資料に出会う話は、さらっと書かれているがけっこうな体力と持続する知的好奇心が必要とされることだ。作家・吉村昭を形成したのはまさにこの事実を追求する執着心だと思うが、強烈な動機というか、そういうものに突き動かされた背景はバランスとして詳細には描かれていない気もする。そのあたりは、氏の小説に当たることでつかめてくるのだろう。

どうでもいいが、どうでもよくないこと。あってはいけないが、無視してはいけないこと。

きょねんのUTMFで使うはずだったトレイルランニング用の靴を、ようやくきょうおろした。買ってからおよそ1年半が経過し、コロナ禍でもマーケットにはしっかり代謝はあって、すでに旧世代のモデルと化している。思えばトレランの靴なんてレースがなければ登山くらいにしか使わない(自分の場合はロードランニングか登山なので、いわゆるトレランはやらないほうだと思う)のだから、使用頻度も極端に落ちる。

 

2020年の3月に入って、そろそろ履いて本番向けに慣らし始めようとした矢先にコロナウィルスによる中止が決定。UTMFに限らず、こういった「勝負服」的なものがその行事とともに流れてしまった人は多かろう(ただもちろん、そんなものは大局的には些細なことだ。少し前にコロナ禍における看護師のドキュメントをテレビで観た。その新人看護師の女性は、家族への感染を避けるためにビジネスホテルから通勤し、人を助けたくてその職業を選んだのに、逼迫する病棟で救うことができずに絶えていく命に向き合い、無力感と極度の疲労感のなかで職場を去る選択を取らざるをえなくなった)。

 

もとい。そのうえで、やはり他人には理解されなかったり、言葉にすることがはばかられたりするが、自分にとってはとても重要なことは確実にある。こういうことは、公言できないにせよ、気の置けない仲間とくだらない、それ自体たいした価値のない(あえていえば)クソみたいな会話のなかで、当人にとってガス抜きとして作用してきたのだろうと思う。

 

いまは、「どうでもいいこと」は語るに値せず、コロナ禍でなくても、合理的で理性的なものが求められている。「どうでもいいこと」を「どうでもいいまま」発することが難しくなっている(と、一方的に感じている)。その場所も失われている。それが、社会が成熟するということなのだろうか。確かに理不尽なこと、不条理なこと、それらによって人間の尊厳や存在そのものの価値を蹂躙(書けない漢字を書いてしまった)するようなことは許されない。かといって、社会にどうしても存在するそんな個人では思うにまかせないことに対し、目をつむって「無いもの、あるべきではないもの」として捉えるのか、克服すべきものとして見るのかによって、向き合う態度には違いが出るだろう。

 

矛盾や理不尽は、「無いもの」とされたものの断末魔の叫びかもしれない。それが無視されることでガスが溜まり、ある日突然爆発することになる。無視するのではなく、まずはその存在を認めることがスタートであるはずだ。

読書記録『見えない橋』(吉村昭)

 

 最近読んでないので、小説を欲して購入。吉村昭は取材に基づく硬質な小説のイメージですが、この本はよりパーソナルな「死」にまつわる物語が集まっている。自分はいわゆるアラフォーだが、もう少し歳をとってから読んでもいいかな、という感じ。あと吉村昭はうねるような重く強い流れの長編がやっぱりいいな、と思った。

読書記録『神々の明治維新-神仏分離と廃仏毀釈- 』(安丸良夫)

 

 魔女狩りとかキリシタン弾圧とか、ある(体制とか宗教とか広義の)団体が特定の宗教集団、あるいはそれに反する存在に攻撃加え、廃絶しようとするような歴史的事象には、なぜか惹きつけられるものがある。様々な形態や考えかたはあるにせよ、少なくとも表面的には人間を救済すべく存在するはずの宗教が、排他的にほかのものを抹殺しようとする。その「異様さ」が、こころをつかんで離さないのかもしれない。

 

神仏分離廃仏毀釈はさらっと教科書で触れられるだけで、現代の日本人にはあまり深く話されるトピックではないかもしれない。神道も仏教も、なんとなく現代でも生きながらえていて、なんとなく「無かったこと」になっているのだろうか。この明治維新の時期に破壊され打ち捨てられた仏像や仏教建築などは、こんにちの我々が想像するよりもたくさん存在したのかもしれない。神社仏閣、仏像などは日本の「伝統」「文化」の象徴とされ、確かにそうであるが、ほんらいはそういう静的なイメージというよりももっと緊張をはらんだものの象徴といえるだろうし、そのような視点に立つことで、ダイナミックに歴史を捉えることができると感じた。

読書記録『「読む」って、どんなこと?』(高橋源一郎)

 

 高橋源一郎が、小学生の教科書や、詩人や、小説家などの文章をひきながら「読む」ということを読者に伝えている本。各引用テキストについてテクニカルに読む、ということではなく、そのものが書かれた背景や登場人物の心象風景を感じながら、OJT的に「読みかた」について語る。

 

自分にとっては、SNSのタイムラインみたいに流れていくいまの世界において、「ちょっと立ち止まって感じる・考える」ことのたいせつさを指摘されたような気がした。