「デジタル・デバイド」再考 〜「in-dividual」としての「個」〜

「デジタル・デバイド」は大学生の頃(2000年代前半)、いわれていたことだと思う。簡単にいえばインターネットに接続しているひとたちと、接続しない(できない)ひとたちとの間に生まれる情報の格差。当時の論調では、確か接続しているひとたちが情報をもたざるに対して優位に立ってしまう、という感じだった。

いまは、ネットのインフラがかなり浸透している、ということもあるのか、それとも、ネット経由の情報をもつことが果たしてもたざる者に対して「優位」といえるのか、という正常な(と、ぼくは思う)リテラシの感覚に基づく価値観もできあがったからなのか、はたまた、世界中に存在する「格差」がいつもそうであるように、市場主義経済というシステムの「不可欠な」いちぶとして存在しているがために、意図的に目を背けてしまっているからなのか、あまりこの単語を見聞きすることはなくなった。

「IT革命」とかいわれていた時期、その技術が世界(個々人の現実生活のレベル)にもたらす影響の本質はなんだろうかと考えていた。どうにも、なんらかの事態が進行しているさなかにおいては、仮説を立てるのが精一杯で物ごとを俯瞰してみることはできない(そういう意味では「後出しジャンケン」で、いささか卑怯ではあるが)。ハナシが逸れたが、いまになって捉えることができる本質らしきものというのは、情報の受け手の間の格差を生み出すという意味でのデバイド(分割)というよりは、伝えられる情報、それ自体の分割なのだと思う。そして、もっと情緒的ないいかたをすれば、分割は「解体」とまでいえてしまう事態になっている。

その意味するところは、広義の情報の、極小の単位への落とし込みだ。ここでいう「極小」とは、「情報が意味を保持し得る単位」であり、「意味」はなにかしらの価値判断に基づくものだから、例えば音楽においてはそれが商品として価値を持ち得る最少単位が曲であり、さすがに小節、個々の楽器の音までに落とし込まれた「商品」は、存在しない(存在していたとしてもマス・マーケットとしては成立していない)。

ところで、「意味」なんてものは、ずいぶんアヤシい概念で、それ自体として「始めからそこにあるもの」ではない。(自らの経験上)人間というものは弱いもので、自分のしていること、ひいては自分の存在そのものの価値をはかるために、意味を求めて悶々とする(それ自体として始めからある意味などないとわかっていても、考えを巡らせることをやめられない)。そしてまことに残酷なことだが、そんな絶対の真理めいたものは、ない。「意味」なんてとても曖昧で、多義的なコトバはなくなってしまえばいいとすら思う(なにせ求めるのはツラい)。「価値判断」とか、「モチベーション」とか、「意志」とか、言い換えることができるし、けっきょくは当面そうして歩いていくしかないのだから。

また遠回りしたが、つまりはなにがいいたいかというと、ネット上の分割された情報は、それ自体として意味があるようでいて、必要なものが欠けた状態である。インターネットにおける情報は、音楽や電子書籍の商品価値であるとか、震災時のツイッターによる情報発信のような単純に有益(と思われる)な価値であるとか、かなり意図がはっきりしている。裏返していえば、意図が明確なだけに、(よっぽど表現に欠陥がない限り)その情報は極端に単純化されている。それゆえ、本来付帯情報としてあるべきものが欠落しているといえる。

最近は音楽をダウンロードで買うようになって便利なのだが、ブックレット(歌詞カード?)がないのは寂しい。歌詞を読むこと自体も好きだが、ぼくはけっこう、このCDは誰がプロデュースしているのだろうとか、この楽器は誰が演奏しているのだろう(サポートのミュージシャン)とか、どこでレコーディングされているのだろうとか、そういったのを見るのが好きで、好きなほかのミュージシャンと偶然同じプログラマーが参加していたり、意外なひとが意外なところで出てくると、小躍りしちゃうタイプだ。ぼくにとっての音楽の楽しさは、そういったある意味「ひとづて」で広がっていくところにある。本なんかも、本文以外(解説、裏表紙の発行年月、版をどのくらい重ねているか、など)のところを読むのが好きで、電子書籍ではそれがないことのほうが(いまのところ)多いので、かなり寂しい(というか本を読んでいる気にならない)。*1

インターネットをインフラとする情報群は、人間関係や文章や音楽を、そのものが置かれたコンテクスト(社会的、歴史的)から引きはがされた単なる鑑賞の対象に、変容させてしまった。そこには「気分」しかない。そしてぼくは、せわしい更新や、タイムラインについていくことが精一杯で、大切なものを膨大なサーバーの海のどこかに落とし、再び拾うことがない。このことを自分なりに解釈したうえで、自分を再構築していかなければならない気がしている。時間は、かかりそうだ。

*1:その寂しさを埋めるのが、SNSなのかもしれない。使いこなしていないだけなのかもしれないが、なんか責任をともなわないあの世界観は決して「ソーシャル」なものだとはいえないように感じる。