電車でぼんやり考える、メールの自己防衛

いまの時代のコミュニケーション行為のかなりの部分を占める電子メールは、「文字」というものが、多様な数ある表現形式を構成しあるいは補完するいち部分に過ぎない、ということを忘れさせる。でも、人びとの(事務的な内容から感情の吐露に過ぎないものを含む、広義の)情報のやり取りが、「文字」というメディアに集約される状況は、不自然と言わざるを得ない。

たしかにぼくは文章というものが好きだが、書いていて常に限界を感じているし(己の表現力、語彙の貧弱さ)、口語においてもいつも言いたいことがうまく伝えられず、もどかしい思いをしている。まして、小さな画面で見ることが前提となる携帯電話、シンプルさが求められるビジネスメールでは、長文はなるべく避けたい(でもぼくらは哀しいかなその文字数で相手の気持ちを量ったりするが)。そのような単純さを前提としつつ、しかし感情や意図をうまく表現したりしなければならず、この厳しい規則のなかでいかに自由度を発揮するか、という世界観は、短歌や俳句の世界そのものだ(絵文字はかなり自由度をあげる便利なツールだと最近思うようになった)。

ぼくらは本来ハードルが高いことを、その覚悟なくおこなって、日々のコミュニケーションに成功したり失敗したりしながら一喜一憂しているともいえる。

三島由紀夫の文体のように過剰なほどに緻密な文章構成、比喩、仰々しいまでの語彙の選択をみると、作家というものがいかに文字(とそれによって構成される文章)に信頼を置こうとしているかが分かる。彼らは文字による表現形式の限界を知っているからこそ、その限界に挑戦し、その過程こそがぼくら読者になんらかの「感銘」を与えうるのだと思う。そこではもはや、文字による表現が信ずるに値するかどうかということは問題にはならず、それでも文章表現に執着する姿勢は、信仰、もっと具体的な行為に落とし込んでいえば、祈り、に似ているだろう。

じゃあ、コトバを信じて祈るように仰々しいメールをしたい、ということをいいたいのではない。むしろ、そこまでコトバに信頼を置くということは作家なんかの本気度が高い範疇であって、日々「気軽に」使用する電子メールの表現自体、とても難しいことをしているんだと認識すること。そのうえで、自分が書くときはもちろん慎重であらねばならいないが、相手の表現した文字列について寛容であること、その文字列がすべてを必ずしも表現できないし、こちらも相手の意図通りに完全に解釈することは、ほぼ不可能であること、これらを常に念頭に置くことが大事なんだと。

そうすると、この厳しい世界でも比較的傷つかずに生きていける(ような気がする)。傷つかない人生なんてツマンナイ、って意見もあるかとは思いますが。