150512_日記

久々にこういう記事を書きます。日記、エッセイ的なやつです。ブログってやつは、「ほぼ読まれないけど、だれかに読んでほしい」、そういう力なき凡夫の便所の落書きみたいなもんですが、やっぱり、最近疎かにしてきただけに、だれかになにかを伝えようとする活動それじたいは、重要というか、「やめてはいけない」あるいは「諦めてはいけない」たぐいのものだと今書いていて思う次第です。それが、たまたまブログだった、ってだけです。なので、だれにどこに届くかわからないですが、いわば「心の同胞」に向けて書きます。太陽系のどこかに届けばいい、くらいの気持ちで。

おれは未婚ではありますが、それでも30代半ばともなると、仕事でそれなりの責任のある仕事をするようになるし、(適切ないいかたかわかりませんが)自由主義経済における資本主義の労働者として、有無を言わせずやるべきこと、しっかりとした大人としてのしかるべき振る舞いというものが(無意識でも)意識されてきます。それは、若かりし頃の、自分がある程度世界の中心にいる、「独我論」とまでは言いませんが自己中心的な世界観に浸っている時期を経て、いわば「社会化された」とでも言える状態なのかもしれません(見方によっては「諦念」とも定義できるでしょうけど、諦めとは言いたくない)。

20代の頃は、絶望、自己の消滅にたいする憧れというか欲求というか、そういう心境でずっと生きていました。「死ぬ」ということに近いですが、理想的には「消滅」であって、「死」にまとわりつく血や肉体の崩壊など、「痛い」とか「怖い」とかそういうものを直視しない(想像できない・しない)、観念上だけのヌルい単なる逃避欲求であったな、と今になって思います。住んでいるマンションのベランダから落ちるとか、ホームから線路上に吸い込まれるところとか、いつも自分の死ぬ場面を想像しますが、痛みを感じる直前で、おれの想像はいつもストップしていましたから。

ヌルいと書きました。つまり今となっては、「絶望」とかそんなことを言っているヒマがないということです。時間的なヒマがない、というよりは、もっとほかにやること、考えるべきことがあるだろう、という意識です。勤めている会社は大きくはありませんが、それだけ社員ひとりひとりの顔が浮かび、いかにこの会社を潰さずみんなが食えるようにするか、とか、会社に限らずいかに身の回りを環境をよくするかとか、そういう方向に(実際に行動に移せているかどうかは置いといて)意識が向きます(もちろん偉そうに言ってますが、まだほんの少しです)。

これは、いい傾向とか、悪い傾向とかそういうことよりは、今たまたまおれの心のあり方がそういう状態にあるだけなんだと思います。生きているそれぞれのライフステージにおける「絶望」にほんとうに向き合うことも大切だし、そういう問題を人生にとって否定的なものだと、単純に切り捨ててしまいたくはない。今まさにこの記事を書いているのは、そういうおのれの精神的な遍歴を、温存、つまり、いつか使うために大切に保存しよう、と思ったからなのです。