所有ということ

あまりまだ突き詰めては考えられてはいないんだけど、近ごろは、よく「所有」ということを意識させられる場面が多いような気がします。

例えば広い意味での性愛とか音楽のメディアとか、そういうところで、物理的にものをもっているということ、より厳密にいえばヒトであれものであれ、生活の身近なところにその対象を置くということ、それじたいの再考を(なぜか自ずと)都度迫られているような感じです。もちろん、最近読んでる手塚治虫の『火の鳥』に影響されているところもあるのだと思います(なにせ『火の鳥』では個々の人間のそれぞれの生は、全体のなかの塵のような位置付けではかなく、火の鳥に象徴される宇宙エネルギーみたいなものだけがその連続性を保っているのだから)。

さっきの例でいうと、好きな音楽はダウンロードではなくCDで手元に置きたい、好きなタイプの異性と付き合いたい(そしてルール上は結婚したい)、気に入ったグラビアアイドルのDVDを所有したい、Web上でみることのできる断片では満足できない、そういった気持ちはもちろんあるし、そもそも何かしらの欲望の動因は、そういった「手元に置きたい」というわりと衝動的というか、欲望としては比較的無垢で純粋な段階のものです。でも少し時間が経ってみると(しかもその時間は最近とても短い)、なんか所有じたいがむなしい、というか、自分という存在が消滅してしまえば「私が(何かを)所有している」という事実そのものが、灰色に見えてくる。なんか、「死」っぽいものを思い起こさせるわけです。

まあしかし、そんなふうに書くと非常に悲観的な考えだと捉えられかねないのだけど、じっさいは悲観してるのではなく、そこにはむしろそのほうが自然、何かを持つことのほうが大きな負担なのではないか、負担がなくなることはすごく楽なことなんじゃないだろうか、というなんかへんな安心感があります。それはもちろん論理的には説明できないし、うまくいえないのが歯がゆいのだけど、「身軽さ」、あるいは語弊があるかもしれないが「自由」という概念に近いのかもしれない。

おもしろいのは、こうやって逡巡してると、いままさに目の前のキレイだな、と感じるものや、興味が惹かれるものたちは、物理的に、つまり人間というはかない存在がその認識の範囲のなかで愛情をもつこと、それじたいが、宇宙においてはほんの一瞬の化学的な作用(それすら人間が名付けたものに過ぎない)なんだなあ、しみじみ、みたいな気分になって、急に対象が愛おしく感じられたりもするのです。