びっき2012年2月号〜自分のことは他人がいちばんよく知っている〜

ぜんたいのバランスをとろうとすればするほど、ささいなつじつまや帳尻をあわせるために必死になって、けっきょく決壊してしまう。人類の壮大な実験である、社会主義が失敗したように(不健全な部分を構造的にはらんでしまう資本主義は、ある意味「健全」といえる)。理性的であろうとすればするほど、論理的であろうとすればするほど、矛盾を抱える現実とのあいだにムリが生じて、ほころびが出てくる。

「理性」は、やせがまん、あるいは、土俵際のつま先の粘り、に過ぎないのかもしれない。

自分にとっての「自己」なんてものは、自分では論理的に説明できているようでいて、実は単なる弱い建築物だといえる。他者という無数のサンプルによってかたちづくられる「他者」は、比較や客観的な構造分析が可能で、わりと強靭な構築物に仕立てることができるが、いっぽう、「自己」はサンプルがなく、たったひとつで強度の検証が不可能な弱い構造体でしかない(はたして「構造」といえるものをもつのかどうかも定かではなない。それほど自己と他者とは、同じ「人間」という在り方ながら異質なものだ)。そして、社会は「他者」同士の関係の網の目でできあがっている。

つまり、社会においては自己への他者のまなざしによって決定される「他者的側面」が機能している、ということをいいたかった。その意味で、自分の自己が「つねに正しい」とはいえないのだ。まあ、わりといつも書いていることの言い換えなのだが、原理的な「不安」としてぼくのなかで発作的に思い出されたので書いてみました。疲れたので続きはいつか気が向いたら。