空虚

「決心」というのはおおげさすぎて、というより、その義務的な感じのハードルの高さがあだになって、むしろモチベーションを下げてしまうように思う。わかっていることをひとに「やれ」といわれると、途端に反発してやる気が削がれてしまうことは多い。「書く」ということへの動機の話だ。

 

これまで自分は、なにか書くことが好きだと自分で思っていた。じっさい、書くことは「得意」と思っていても簡単な行為ではなく、時間のかかる疲れる作業だったが、筆がノってくるとキーボードを叩く指が走って(軽快なものではないが)、あたかも指そのものが思考しているのではないかと思えることもあった。なにか書くことは、自分にとっては考えることと同じ意味だったし、書くことによって考えかたが整理されることもあれば、より深く未知の森のなかに迷いこみ抜け出せなくなることもあった。頭はより覚醒し、麻薬のような一種の興奮状態にあったのだと思う。その充実感は、スポーツよりも官能的で、自分にとっては、ものすごく満足感のあるものだった。

 

だが、ここ数年、書くという行為からあまりに離れてしまって、実は自分は書くことが好きではなかったのではないか、という自問にいま直面し、我ながら残念な気持ちになっている。より正確にいえば、「残念」を通り越して、無関心の領域に踏み込んでしまっているのかもしれない。

 

2012年頃から始めた山登りのための体づくりが、最近のもっぱらの活動になっていることが大きく影響している。体力向上のためにランニングを開始した。ただ漠然と鍛えてもおもしろくはないので、フルマラソンの目標タイムを設定し、トレーニングや食事も本を読んで勉強した。もともとエンデュランス系の運動が苦手な自分にとって、計画的な実践を積むことでタイムが少しづつでも向上していくのが見えるのは、単純にわかりやすく興奮するものだった。インターバル走や坂道でのダッシュで心肺を追い込んだときの、胸の圧迫感や自分の呼吸の音、そして振動。これらはリアリティそのものだった。(余談だが、小学校の4年生から高校までやっていた剣道は、好きで始めたはずなのに「やらされている感じ」が先行してしまい、いまひとりで走って感じるようなリアリティは感じられなかった。)

 

しっかり走る練習をすると、けっこう時間が取られる。仕事が暇な時はいいのだが、少し忙しくなると、途端にリズムが崩壊するし、走ることができても、それでなんとなく満足をしてしまったぼくは、当然書くことについて思い至らない。

 

ただ最近、仕事をして、走って、山に行ったり、ひとと食事したり(かなり頻度は少ないが)しているだけの繰り返しが、やけに虚しく感じられる。仕事をこなし、より速いタイムで走ろうと一応の努力は行い、ひとりでフラッと遠くの山に行って長いこと歩いたりしても、ますます自分が空虚に感じる。フィジカルな運動の快感に刹那的な興奮を覚え、それをただ繰り返しているだけの、中身のない男が、そこにいる。