- 作者: 遠藤周作
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1983/06
- メディア: 文庫
- 購入: 4人 クリック: 34回
- この商品を含むブログ (24件) を見る
自分らが宗教をもたないと思っている(であろう)多くの日本人にとって、「宗教」はだいぶよそよそしい感じがする。宗教を大義名分とする世界の紛争、テロをみるにつけ、そこまで人間を精神的にも肉体的にもドライブする(ようにみえる)のは、なぜなんだろうと思う。その不可解さ、それでいて多くの人びとの精神の拠り所となる普遍性、このアンビバレントな感じに、ぼくは惹かれてしまう。
遠藤周作がおもしろいのは、信仰という問題を、あくまでも神と個人との関係性に落とし込んで書き込んでいる点にあると思う。読者は、小説の登場人物が囚われる「神とは、信仰とは何か」という問題を追体験することで、宗教(ここではキリスト教)的な精神の運動が、決してぼくらの生活、生き死にから遠く隔たったものではない、という直感を得るだろう(そんな気がする)。
気に入った箇所を記録的に引用。
そして百卒長(引用者注:イエスの死刑執行を監督している人物)は、いつかシリヤ人の奴隷兵から聞いたこの男(引用者注:イエスのこと)の話を思いだした。「あれは愛の人だ。力もなく、みじめそのものだったが、優しさが体にあふれていた。どんな人間にもなつかしそうに話しかけ、子供たちを可愛がり、みなが見棄てた癩病人や熱病患者の済む谷にばかり出かけていた」しかし優しさとは弱さにほかならぬなら、今、この男は自分の弱さを醜いまでにさらけ出しているのであり、それは勇気あるバラバを目撃した百卒長には、たまらなく不快だった。(p.358、強調は引用者)
この醜いイエスも、それを不快に思う百卒長も、ぼくらには同居している。