雑感「読書」考

基本的に集中力がないタイプなので、たまに読書も掛け持ちする。2冊ていどの掛け持ちが多いが、今は3冊。どいつもこいつも読みたくてしょうがない状態ならいいのだが、今回の3冊はちょっとどれも弱い。文学とエッセイと、翻訳のエッセイ(?)的な。最後のやつは、序盤を過ぎてけっこうおもしろくなってきたのだが、前者2冊はどうにもこうにも自分に合わない。そんなに進まないなら、読むの止めれば、って感じだが、もったいないの精神で、いや貧乏根性だろう、思い切って次に行こうという気にならない。なんでも楽しめるくらいの本好きの人間ならいざ知らず、おれのような俗物が無理して読書体験を重ねたいだけに読む本は、かわいそうだともいえる。

さすがに40歳ちかくにもなり、最近気づいたのは、当たり前のことだが、人生は有限だ、ということである。まあまだまだ欲張ってもいいような気もするが、自分にはもはや余力がないことにうすうす気づきだした。もちろん、インプットし続けることはたいせつだとまだ思っているが、むやみにインプットするのではなく、丁寧に入れて、咀嚼する。そいうことがペースとしては重要になってきている。読書にしたって、新しいものは読まなくてもいいのではないか、という気持ちに最近はなってきていて、それは『ドン・キホーテ』であったりドストエフスキーだったり、芥川だったり太宰だったりそういう先人たちを合わせると、エンタテイメントとしても、(広義の)文学そのものとしてもだいたい網羅されていて、いまさら新しいものを読むことで興奮めいたものを感じることはあまりない。なので、現代作家についていえばそういうことを自覚している(であろう)作者のものでなければ読む気がしない(少し飛躍している)。

いま、身の周りのものをわりとがっつり捨てたり、いわゆる「断捨離」的なことをしているのだが、権威主義者であるところの自分は、なかなか本を手放すことができない。ドストエフスキーニーチェハイデガーニーチェ解説と、本以外ではランニング、ヨガなんかがあれば自分のプライベートは循環するような気がするが、例えば北杜夫とか遠藤周作とか、なかなかブックオフに売ってしまえ!という気分にはならない。断捨離そのものは著しい快感を伴うもので、これはかなりボトルネックであるが、そもそも断捨離は必要なものとそうでないものを見分ける、ということが主眼のはずであり、捨てることそのものが目的ではない(いや、目的そのものかもしれない)。

部屋ももっと狭くていい。
でも、読書の空間はある意味でクラウドより深淵である。