「自炊」考

関東の夏はこもるような抜けない暑さだから、家で火を使う気がまったく起きない(ちなみにエアコンは夏も冬も極力使わない派だ)。したがって夏は自炊する気など起きない。

この秋から、ひとの影響を受けたりしたこともあって、わりとちゃんと自炊をしている。これまでは、非常に簡素なものばかりだったが、本のレシピにしたがって作ればたいがいわりとうまいものを作れることを体感したし(火加減は難しいかな)、精神的な満足度も高いことが分かったので、そうしている。タッパである程度保存が効くような、そういったレシピが載っている本を買って作っては大学時代から使っているわが狭い冷蔵・冷凍庫にせっせと保存しているわけだが、コンビニとか、半端にファストフードを外で食べるよりははるかにうまく、もちろんおいしいお店には及ばないが、及第点の食事を自分で作って食べることができるといういささか遅い「発見」は、自分の生活をけっこう豊かにしてくれているような気がしている。なによりも、「自分で作ってけっこうおいしい」というその事実が、おおげさにいえば生きている、より精確にいえば「生活している実感」をもたらしてくれるような気がしている。

もうひとつ、自分にとっていいことがある。料理している最中は、わりとそのことしか考えていない。他のことを考えながら包丁を使えるほど食材をさまざまな形状に切断することに慣れているわけでもないので、つど「一生懸命」で、レシピをちらちら見つつ、ほぼ料理することに徹している。はやりの「マインドフルネス」といってしまえば少し陳腐になるが、瞑想とかそういったものに近いと感じている(たまたまだが、このあいだNHKの「あさイチ」に出ていた堤真一氏が同じようなことを言っていた)。

なにより、その集中している間は、そのことしか考えられないのがいい。ランニングですら、それほど負荷をかけていない時は、雑念があれこれ浮かんでくるが、料理は刃物や、火などの危険なものを扱っているからなのか、それとも自分がたまたま慣れいていない分野だからなのか、ほんとうに料理のことしか考えていない自分に出会うことができる。ウェーバー的にいえば(笑)これは「意図せざる結果」であって、なんだか人生や生活の本質めいたものをうっかりついてしまっているような気がしてならない。

欠けていたものは「生活」である。